「復帰」から52年の沖縄闘争に参加~組合員のレポート

24 5月 by gungoroso

「復帰」から52年の沖縄闘争に参加~組合員のレポート

今年2024年5月18日から3日間の5.15沖縄闘争に、群馬合同労組の組合員5名と共に参加して来ました。初めての沖縄です。

最初声をかけていただいた時、闘争が続いてお金の無い組合から私などにまで遠い沖縄への旅費を出していただくことに申し訳無さを感じ、躊躇しました。

でも今の沖縄の姿を自分の目で見たいという欲求には勝てず、参加を決めました。

参加するにあたり、組合の仲間の方たちからたくさんのカンパをいただいたとのことで感謝に耐えません。

沖縄の現実を見てみたい、闘争に参加してみたいと思いながら、日々の仕事と生活のために行くことのできない仲間たち、友人たちの思いを背中に感じながら、出発しました。

12時10分那覇空港到着。その後モノレールで県庁前広場に到着しました。そしてその直後から3日間の沖縄闘争が始まりました。

まずたくさんの若い労働者、学生の方たちの参加に圧倒されました。

時代は変わったんだ!と直感しました。

パレスチナ虐殺を止めようと弾圧にめげずに立ち上がる世界中の人々。

刻々と迫るアメリカの対中戦争と、それに引きずり込まれることに必死の抵抗を続ける琉球弧の人々。

こうしたことを目の当たりにして、引かれたレールに疑問を持ち、そこから降りて闘う人々と連帯し、人間らしい生き方を選ぶ若い人たちが増えていることを感じました。

彼らのアピールには、戦争が迫っているこの時代をどう生きるか、どうやって人々と共に闘うか、という切実感が溢れていました。3日間の行動すべてがエネルギーに満ちていました。

1日目の午後。

バス2台で勝連自衛隊駐屯地へ。なだらかな丘の上に立つ巨大な建物を目の前に、この駐屯地をミサイル基地化することに、そしてアメリカ政府の言いなりに自衛隊員を対中国戦争に巻き込むことに、本気の抗議を行いました。

みんな口々に「政府の言いなりに戦争をするな!」「中国侵略戦争を拒否せよ!」「自衛隊員に人殺しをさせるな」「自衛隊員は住民に銃を向けるな!」などと訴えました。

その後、駐屯地周辺の住宅街を旗とプラカードを持って、思い切り声を出してデモしました。この地区でのデモ行進は今まであまりやられてこなかったようで、町の人たちのたくさんの応援がありました。

1日目の夕方。

青年労働者集会。長年11月労働者集会を積み重ね、党派を乗り越えて連帯関係を築いて来た労働団体の中から、今まさに闘争中の組合員のアピールが続きました。

2日目の朝。

5時起きでバスで南部戦跡巡り。うるま市近くの八重瀬町のヌヌマチガマの内部を見学し、摩文仁の沖縄県平和祈念資料館見学。

沖縄戦の最中、砲弾の嵐の中、病院として機能していたヌヌマチガマの中は、ゴツゴツの石灰岩と赤土と流れる水でヌルヌル。その中を、用意していただいた軍手と懐中電灯をたよりに、泥だらけになりながらガイドさんの案内で中に入りました。

このガマの中に看護助手として動員された近くの女学校の生徒たち(白梅学徒隊)の、過酷な労働環境に、愕然としました。

ゴツゴツの岩場の上にムシロ1枚で寝かされた病人たちの合間を縫って、切り取られた手足や排泄物を捨てに砲弾の雨の降る外ヘ行かされた女学生たち。

麻酔無しの手術を受け泣き叫ぶケガ人の手足を力ずくで抑えさせられた少女たち。

ああ、ガザだ!と思いました。これは昔の話じゃない。今この世界の現実だと。

ガイドさんはこのガマについてしっかりと勉強され、町の体験談聞き取り調査にも参加された女性で、そのお話の仕方も、今に続く戦争のリアルをしっかりと伝えてくださいました。

「沖縄を2度と戦場にしない」ということの、通り一遍ではない切実な意味が、ガイドさんのお話を通して、ひしひしと伝わってきました。

2日目の午後。

「復帰」52年、5.15沖縄集会。

那覇国際通りのテンブス館ホールをぎっしり満杯にして、まず沖縄大学自治会の赤嶺全学連委員長の基調報告。

会場でA4で6ページ分の基調報告全文が配られ、それを彼が読み上げたのですが、全軍労を始めとした沖縄の人々による闘争の長い歴史と、今の沖縄が置かれた状況、そしてそれを突き破る新たな闘いの方向性がよく理解できる内容でした。

続いて「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」の清水早子さん(75歳)のビデオメッセージ。

石垣島で陸上自衛隊ミサイル配備に反対を続ける山里節子さん(85歳)からのビデオメッセージ。

気骨あるお二人の報告に、着々と進む戦争準備と、身辺整理してまでその力に対峙する琉球弧の皆さんの覚悟を思い知らされました。

その後闘争中の各労働組合や三里塚空港反対同盟の萩原さん、大坂正明さんを取り戻す会の佐藤さん(大坂さんの親族)、8.6ヒロシマ大行動実行委員会、全学連の学生さんなどから次々に発言が続きました。

軍事空港に反対する三里塚の闘いと、42年前の沖縄闘争での星野さんや大坂さんの思いと、8.6広島弾圧救援の闘いと、現在着々と戦時体制の進む沖縄の闘いが、この会場で重なった気がしました。

会場を埋め尽くした参加者からは、発言者への共感の「合いの手」がどんどん入って、みんなの真剣さがひしひしと伝わってきました。

2日目夕方。

大会終了後、いよいよ全員で国際通りを賑やかにデモ。カラフルな旗が林立し、手に手にプラカードが揺れ、太鼓やタンバリンの音と共に、「安保粉砕·全基地撤去」「辺野古新基地建設許さない」「中国侵略戦争止めよう」「勝連ミサイル基地化反対」「岸田·バイデン打倒」などを叫びながら、日曜日の夕方の人で溢れかえった国際通りを練り歩きました。

ほとんどの人たちが手を振って応援してくれ、飛び入り参加者が何人もプラカードを受け取って入って来ました。押し寄せる右翼の車に全然負けませんでした。

『安保粉砕·全基地撤去』というと、

「またまた壮大で実現不可能なことを口にして」とか

「現実はそんなもんじゃない」とか

「過激だ」などと言う悪口が聞こえてきそうだけれど、そう言われようとなんだろうと、この日本に安保なんていらないし、米軍基地もいらない。米軍指揮下の自衛隊基地もいらない。

当たり前のことを当たり前にストレートにコールすることの何が悪い?

今回、当たり前なことをためらわずにズバッと口にすること、掲げる「理想」を口ごもらずに訴えることが、沖縄の町の人々の意にも添っているはずだ、と実感しました。

少し前の「戦争反対!」のコールと、今戦争へ突き進む情勢化での「戦争反対」のコールでは、中身が違う。重みが全然違う。だからみんな真剣さが違う。

アメリカはもうすでに、来年、2025年には対中国戦争開始を考えている。自衛隊員はアメリカの指揮下での戦争参加を覚悟させられている、、。

1日目の勝連のデモと2日目の那覇国際通りのデモ。

どちらのデモだったか記憶が混乱しているのですが、デモの終わり近く、民家の庭におじいちゃんがお孫さんと手をつないで立っておられ、「ご苦労様です」と言ってくださいました。お孫さんも「バイバイ」と手を振ってくれました。

この優しい人々の暮らす沖縄に、ひたひたと近づく戦争の影。「子どもたちを守る」という言葉が、重い意味を持って胸に迫りました。絶対に戦争を止めなければ、と思いました。

3日目の朝。

早朝からバスで辺野古ヘ向かい、搬入阻止の座り込み。

フェンスに沿ってズラーッと、ものすごい数の青ヘルのガードマン。その足元にすでに座り込んでおられる地元の方たちの前に、プラカードを持って座り込みました。私たち以外の団体(全労協のみなさん)も参加して、総勢約400名の座り込みとなりました。

座り込んでいる間に、地元のお年寄りのお話や歌が続きました。子どもたちに平和な沖縄を残すために1日も欠かさずに座り込みを続ける地元の方たちの思いに、ほんの少しですが接することができました。

そして、この日の午前中、来るはずの搬入車は1台も来ませんでした。つまり争わずして午前中の搬入を阻止することができました。

たった半日の座り込み行動でしたけれど、少しでも地元の方たちのお役に立てたようで、うれしかったです。

バスまでの帰り道、長い登り坂の左側には延々とキャンプ・シュワブの基地が続き、右側には地元の方たちの見張り小屋がこれまた延々と続いていました。

見張り小屋の前では、住人の方たちが、ずっと私たちに手を振ってくださっていました。

3日目最後の行動。

バスで那覇市内に戻り、那覇駐屯地への抗議行動を行いました。

那覇駐屯地は平坦な町中の大きな通りに面しており、その前での300人近くの抗議行動は、勝連駐屯地にも増して、力強いものでした。

みんな疲れも忘れて抗議しました。沖縄をそして日本を侵略戦争に巻き込むな!という思いに突き動かされた必死の抗議でした。

☆☆☆☆

たった3日間の沖縄滞在で、沖縄の方たちの長い苦難と抵抗の歴史と今を、全て理解できるはずもありません。

でも、そのほんの一端を垣間見ることだけはできました。

この体験をどう今後に生かすかが問われていると思っています。

送り出して下さった組合の皆さんには心から感謝します。

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